『幸福論』で知られる哲学者バートランド・ラッセルの言葉を、幸福・愛・考えること・戦争のテーマで紹介。全件に著作名と章を添え、ネットで広まる誤った引用は外しています。
バートランド・ラッセルの名言を、出典つきで83選びました。『幸福論』で知られるイギリスの哲学者が、幸福、愛、考えること、戦争について残した言葉です。一つひとつに、どの本や講演で語られた言葉かを添えています。
ラッセルの言葉はネット上に数多く出回っていますが、本人のものと確認できない言葉も混ざっています。たとえば「浪費するのを楽しんだ時間は浪費ではない」は、1912年の小説の一節がラッセルの言葉として広まったもので、本人の著作には見当たらないため入れていません。載せた言葉は原則として原文と出典を一次資料で確かめ、確かめきれなかったものは出典欄にその旨を書いています。
解説では、その言葉がどんな議論の中で書かれたのか、あるいは月曜の朝やSNSを閉じたあとの時間にどう響くのかを、一緒に考える形で書いています。自分はこれでいいのかと迷いながら働いている人に、ラッセルの言葉は意外なほど実際的に効きます。
\ 言葉は、いちばん小さなお守り /
この記事を運営するAnchorでは、iPhoneアプリ「
ポケットAnchor」も作っています。気合いを入れさせるアプリではなく、ポケットの中のお守りのように、そっと隣にいてくれるアプリです。アプリ独自のコレクションに、3,000を超える偉人の名言を収録(収録数 国内No.1※自社調べ)。ウィジェットを置けば、スマホを開くたび、今日の言葉が目に入ります。基本機能は無料です。
バートランド・ラッセルとはどんな人物か
バートランド・ラッセル(1872〜1970)は、イギリスの哲学者・数学者・論理学者です。ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』(1910〜1913)で、数学を論理学から基礎づけようとしました。第一次世界大戦中は反戦活動によってケンブリッジ大学の職を失い、1918年には投獄されています。1930年に『幸福論』を刊行し、1950年にはノーベル文学賞を受賞。1955年にはアインシュタインら11人と連名で核兵器の廃絶を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表しました。97歳で亡くなるまで、哲学・教育・平和について発言を続けた人です。
バートランド・ラッセルの名言83選
名言1【バートランド・ラッセル】幸せを直接追いかけるのをやめる
幸福な人とは,客観的に生き,自由な愛情と幅広い興味を持ち,またそういう興味と愛情を通して,今度は逆に,他の多くの人びとの興味と愛情の対象になるという事実を通して,自らの幸福を確保する人である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第17章「幸福な人」
『幸福論』の最終章、本全体の結論にあたる一文。この本でラッセルは、不幸の原因を自分の内側ばかり見つめる「自己没頭」に求めてきた。だから幸福な人の定義も、内面の充実ではなく「客観的に生きる」ことから始まる。外の世界に興味を持ち、人に自由な愛情を向ける。すると回り回って、自分が誰かの興味と愛情の対象になる。幸福を目的にせず、結果として受け取る。本を読み終えた読者に手渡される、静かな結論だ。
名言2【バートランド・ラッセル】伝わって返ってくる関係を知る
幸福な,相互的な愛という,深い親密さと強い交わりを経験したことのない人びとは,人生が提供する最上のものを失ったことになる。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『結婚論』(1929)第9章「人間生活における愛の位置」
『結婚論』は1929年、性と結婚の道徳を正面から論じて物議をかもした本だ。その第9章でラッセルは、愛を宗教や慣習が取り締まる対象ではなく、人生そのものの価値として位置づける。義務や恐れからではなく、互いに向き合う親密さ。それを知らない人は人生が差し出す最上のものを受け取り損ねている、と言い切った。恋人でも友人でも家族でもいい。通じ合えたと感じた記憶が一つでもあるなら、もう最上のものに触れている。
名言3【バートランド・ラッセル】不安で眠れない前夜にやること
何らかの災難が迫っているときには,起こりうる最悪の事態はどのようなものであるかを,真剣かつ慎重に考えなさい。起こりうる災難を直視した上で,結局のところ,それはそれほど恐ろしい災難ではないだろうと見なすための十分な理由を見つけなさい。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第5章「疲れ」
『幸福論』第5章「疲れ」にある、不安の扱い方。ラッセルは難しいテーマを書くとき、何ヶ月も心配していた。その心配で答えが一日でも早く出たことはなかった、と振り返ってこの手順を書いた。最悪の事態をぼんやり恐れるのではなく、言葉にして直視する。そのうえで「それでも、そこまでひどくはない」と言える根拠を探す。提出前夜や面談の前、頭の中で膨らむ恐れは、形を与えた瞬間に意外なほど小さくなる。
名言4【バートランド・ラッセル】心配を何度でも見つめ直す
最悪の可能性を時間をかけてじっくりと見つめ、本当に確信を持って、「いやはや、結局、そんなにたいしたことではないのだ」と自分に言ってみると、あなたはその心配がほとんど消え去っていることを発見するだろう。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第5章「疲れ」
名言3のすぐ後に続く言葉で、同じ『幸福論』第5章にある。直視して「たいしたことではない」と本気で思えたとき、心配はほとんど消える、とラッセルは書く。ただし一度で終わるとは言っていない。原文には「数回くり返す必要があるかもしれない」と続きがある。不安は、追い払うたびに戻ってくるものだ。戻ってきたら、また見つめ直す。それを繰り返すうちに恐れが育たなくなる、というのが彼の実感だった。
名言5【バートランド・ラッセル】達成だけを見て苦しくなるとき
不幸な人間の典型は,若いときに何らかの正常な満足を奪われたため,その一種類の満足を他の何よりも価値があると思うようになり,それゆえ,自分の人生に一方的な方向性を与え,その目的に関連した活動ではなく,その目的の達成のみをまったく不当に強調するようになった人である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第1章「何が人びとを不幸にするのか」
『幸福論』第1章で、不幸の心理的な原因をひとまとめにした箇所。ラッセルはこの章で、罪の意識、自己陶酔、権力欲などを並べたあと、共通点をこう言う。若い頃に何かを奪われ、その一種類の満足だけを過大に求め、達成に向かう活動そのものを軽んじてしまう人、と。評価、年収、肩書き。手に入れた瞬間の満足ではなく、そこへ向かう日々の中に喜びがあるか。問いは静かだが、鋭い。
名言6【バートランド・ラッセル】幸福を難しく考えすぎない
幸福の全主題が,私の意見によれば,あまりにも厳粛に扱われすぎてきた(と思う)。人は,人生観あるいは宗教なくして幸福ではありえないと考えられてきた。
(バートランド・ラッセル)
出典元:エッセイ「幸福への道」(The Road to Happiness, 1952)
1952年のエッセイ「幸福への道」の終盤にある言葉。ラッセルは当時80歳。二度の大戦と投獄、ノーベル賞を経たあとで、幸福はもっと軽く扱っていい、と言っている。人生観や宗教がなければ幸せになれない、という前提をまず疑う。『幸福論』から20年あまり、彼の立場は変わっていない。幸せの定義が見つからなくて立ち止まっている人には、定義を探すのをやめてよい、という許しに聞こえる。
名言7【バートランド・ラッセル】変えられないことに力を使わない
賢明な人は,防ぐことが可能な不幸に甘んじることはしないけれども,避けることが不可能な不幸に時間と感情を浪費することはしない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第16章「努力とあきらめ」
『幸福論』第16章「努力とあきらめ」から。ラッセルはこの章で、幸福には努力が要ると述べたあと、あきらめにも同じだけ本質的な役割があると続ける。防げる不幸に黙って甘んじるのは怠惰だ。けれど避けられない不幸に時間と感情を注ぎ続けるのも、同じくらい消耗する。悔しさを感じることまでは選べない。ただ、その感情をどこに向けるかは選べる。
名言8【バートランド・ラッセル】書名に込められた意味を知る
幸福は,ごくまれな場合を除けば,熟した果実のように口の中に落ちてくるものではない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第16章「努力とあきらめ」
同じ第16章の冒頭、努力の側を擁護する箇所にある。ラッセルはこの一文の直後に「だから私はこの本を『幸福の征服』と名づけた」と書いている。原題 The Conquest of Happiness は、幸福は勝ち取るものだという宣言だった。幸運に任せていては幸福は来ない。うまくいっている誰かを見て、運がいいと思いたくなる。けれど実際は、見えないところで摘みにいった果実かもしれない。
名言9【バートランド・ラッセル】刺激を追い続けて疲れた日に
幸福な人生は,かなりの程度,静かな生活でなければならない。なぜなら,真の喜びは静かな雰囲気の中でしか生きられないからだ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第4章「退屈と興奮」
『幸福論』第4章「退屈と興奮」を締めくくる一文。ラッセルはこの章で、退屈を恐れて刺激を追い回すほど、かえって耐えがたい退屈に陥る、と逆説を述べる。興奮は薬のようなもので、量を増やさないと効かなくなる。通知を切ったとたんに少し楽になる感覚は、彼の言う「静かな雰囲気」に近い。真の喜びは騒がしさの中では生きられない。何かを足すより、少し静かにすることが幸福への近道だった。
名言10【バートランド・ラッセル】退屈に耐える力を見直す
静かな生活が偉大な人々の特徴である。 偉大な事業は、粘り強い仕事なしに達成されるものではない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第4章「退屈と興奮」
名言9の少し前、同じ第4章にある。原文では同じ段落の二つの文で、順序は日本語と逆になる。ラッセルが例に挙げるのは、ケーニヒスベルクから十マイル以上離れたことがないと言われるカント、航海のあとは自宅にこもったダーウィン。偉大さは派手な日々からではなく、地味な作業に没頭できる力から生まれる。退屈に耐える力は生まれつきではなく、子どものうちに身につけていくものだ、とラッセルは続ける。
名言11【バートランド・ラッセル】三日坊主をくり返したあとで
目的の一貫性は,長期的な幸福の最も本質的な要素の一つである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第14章「仕事」
『幸福論』第14章「仕事」で、仕事がなぜ幸福に役立つかを数える中の一節。ラッセルはここで、退屈な仕事でも評判を築く手段になれば耐えられる、と述べたあと、長期的な幸福の最も本質的な要素として目的の一貫性を挙げる。原文は「そして大多数の人にとって、それは主に仕事を通じて得られる」と続く。才能でも速さでもなく、同じ方向を向き続けること。やる気が消えた日でも、向きさえ変えなければ一貫性は保てている。
名言12【バートランド・ラッセル】幸せの十分条件ではなく必要条件
一貫して変わらぬ目的を持つということは、必ずしも人生を幸福にするとはいえないが、このような目的を持つことは、幸福な人生のためには不可欠な条件の一つであることは間違いない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第14章「仕事」
第14章「仕事」の結びにある一文。原文はより簡潔で、「一貫した目的は人生を幸福にするのに十分ではないが、幸福な人生のほとんど不可欠な条件だ」という趣旨になる。目的があれば幸福になれる、とは言っていない。ただ、それがないと幸福は長続きしない。やりたいことが見つからなくて焦る人には、この区別が少し呼吸を楽にしてくれる。
名言13【バートランド・ラッセル】仕事が目的の受け皿になる
一貫して変わらぬ目的が具体的に実現されるのは、主として仕事によってである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第14章「仕事」
名言12の直後、『幸福論』第14章を閉じる最後の一文。原文は「一貫した目的は主に仕事の中に具体化される」という短い言葉で、日本語訳はそれを丁寧に言い直している。ラッセルの言う仕事は、報酬のある職業に限らない。目的は頭の中にあるだけでは形を持たない。手を動かす何かに流し込んで初めて、一貫性は見える形になる。職場で燃え尽きそうなときほど、この「受け皿」という見方が効く。
名言14【バートランド・ラッセル】仕事に意味を見失った月曜の朝
仕事は,何よりもまず退屈の予防として望ましい。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第14章「仕事」
第14章「仕事」の冒頭近くにある。ラッセルはまず、仕事の価値を高尚な使命ではなく、ごく実際的なところに置く。必要だが面白くない仕事の退屈は、何もすることがない日々の退屈に比べれば取るに足らない、と原文は続く。さらに、仕事があるから休日が楽しくなる、とも。意味を見失った月曜の朝に、使命感を無理に取り戻す必要はない。空白を埋め、何かに向かっている状態を保つ。それだけで仕事は役目を果たしている。
名言15【バートランド・ラッセル】全部手に入れた人が不幸な理由
あなたが欲しいもののいくつかを、なしで済ませることが、幸せになるには不可欠である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第2章「バイロン風の不幸」
『幸福論』第2章「バイロン風の不幸」で、旧約聖書「伝道の書」の厭世観を検討する流れに出てくる。欲しいものを簡単に手に入れられる人が、それでも満たされず、人生は空しいと結論づける。ラッセルはその人が忘れていることを指摘した。欲しいもののいくつかが手に入らない状態こそ、幸福に欠かせない一部だと。SNSで誰かの充実を眺めて感じる足りなさは、まだ欲しいものがある証でもある。
名言16【バートランド・ラッセル】苦手の克服より得意を伸ばす
あなたの得意なこと、それが幸福をもたらしてくれる。
(バートランド・ラッセル)
出典元:BBCテレビ・インタビュー(1959)、『Bertrand Russell Speaks His Mind』(1960)収録
1959年、BBCテレビでジャーナリストのウッドロー・ワイアットを相手に語った言葉。ラッセルは80代後半で、この対談はのちに一冊の本にまとめられた。日本語は原文の要約に近く、趣旨は「自分がうまくできることが幸福をもたらす」という素朴なものだ。苦手の克服ばかりに時間を使っていると、得意なことを使う機会が減っていく。人に頼られること、時間を忘れてやってしまうことの中に、たいてい答えがある。
名言17【バートランド・ラッセル】愛されたいと願うほど遠ざかる
愛情を受け取る人間は、一般的にいえば愛情を付与する人である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第17章「幸福な人」
名言1のすぐ後、『幸福論』最終章にある。ラッセルは原文で、愛情を要求する人は愛情を与えられる人ではない、と先に述べてからこの一文を置いた。さらに、利息目当てで金を貸すように計算して愛情を与えても本物にはならない、と釘を刺している。見返りを数えない愛情だけが返ってくる、という構造だ。認められたい気持ちが強いときほど、まず自分から関心を向ける。回り道に見えて、それが一番近い。
\ ここまでで、心に残った言葉は /
誰かの言葉が、ふと心に留まる瞬間があります。私たちのiPhoneアプリ「
ポケットAnchor」は、その瞬間を毎日に持ち込むために作りました。アプリ独自のコレクションから毎日ひとつ、ウィジェットに言葉を映します。3,000を超える偉人の名言(収録数 国内No.1※自社調べ)から、その日の一枚が届きます。基本機能は無料です。
名言18【バートランド・ラッセル】興味の幅をできるだけ広げる
幸福になる秘訣をお教えしよう。 できるだけいろいろなものに興味を持ち、物ごとであれ人間であれ興味を感じるものを無視せず、できるだけ好意的に接することだ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第10章「幸福はそれでも可能か」
『幸福論』第10章「幸福はそれでも可能か」を結ぶ一文。日本語はやや意訳で、原文は「興味をできるだけ広く持ち、興味を引く物事や人への反応を、敵意ではなくできるだけ友好的にせよ」という趣旨になる。本書は前半で不幸の原因を論じ、後半で幸福の条件に移る。その折り返し地点に置かれた要約だ。何かに興味を持つこと、そしてその対象に好意的でいること。たった二つの条件で、あとに続く章の内容がほぼ言い尽くされている。
名言19【バートランド・ラッセル】一つを失っても戻れる場所を持つ
人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなる
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第11章「熱意」
『幸福論』第11章「熱意」から。ラッセルはこの直後に、関心が多いほど運命に左右されにくくなる、と理由を添えている。一つを失っても、別のものに戻ればいいからだ。仕事だけ、恋人だけ、一つの夢だけに全てを賭けていると、それが揺らいだとき自分ごと崩れてしまう。章の中では、サッカー観戦を楽しめる人や読書を楽しめる人を、ごく真面目に例に挙げている。関心の数は、安全装置の数でもある。
名言20【バートランド・ラッセル】周りの目が気になって動けない
世論に対して関心を示さないのは、まさに一つの力であり、幸福の源泉である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第9章「世評に対する恐怖」
『幸福論』第9章「世評に対する恐怖」から。原文は「世論に本当に無関心であることは、強さであり幸福の源泉でもある」という趣旨で、日本語の「力」は原文では「強さ」にあたる。ラッセルはその直前で、わざと世論に逆らうのも結局は世論に支配されている、と書いている。反発するのでも従うのでもなく、本当に気にしないこと。周りの目で動けなくなるとき、この三つ目の選択肢があると知るだけで、少し身体が軽くなる。
名言21【バートランド・ラッセル】生き残るためと言い訳するとき
生活のための闘争と言っているものは、正直なところ、成功のための闘争にほかならない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第3章「競争」
『幸福論』第3章「競争」から。ラッセルはここで、人びとが「生存競争」と呼んでいるものの正体を暴く。破産した実業家でも、一度も金持ちになれなかった人より暮らしには困らない。だから本当に恐れているのは、朝食が食べられなくなることではなく、隣人より目立てないことだ、と原文は続く。生活のためと言いながら、実は比較のために走っていないか。この皮肉は辛辣だが、気づけば降りる自由があることも同時に教えてくれる。
名言22【バートランド・ラッセル】大きすぎる希望の正体
極端な希望は極端な悲惨から生まれる。
(バートランド・ラッセル)
出典元:広く流通する語録(一次資料は未確認)
ラッセルの言葉として英語圏・日本語圏で広く流通しているが、どの著作にあるかは確かめられていない。『New Hopes for a Changing World』(1951)説はあるが本文照合が済んでいないため、一次資料未確認の語録として載せる。極端な希望は、健全な期待ではなく、耐えがたい現状の裏返しとして生まれる。一発逆転を願うときは、希望の大きさより、その土台にある苦しさの方を見てやりたい。
名言23【バートランド・ラッセル】若きラッセルの厳しい信条
個人的な幸福のための努力を放棄し、一時的な欲望に対する熱意のすべてを追放し、永遠なものに対する情熱に燃えること。
(バートランド・ラッセル)
出典元:エッセイ「自由人の信仰」(A Free Man’s Worship, 1903)、『神秘主義と論理』(1918)収録
1903年のエッセイ「自由人の信仰」から。30代に入ったばかりのラッセルが、神のいない宇宙で人はどう生きるかを問うた文章で、のちに『神秘主義と論理』に収められた。引用は文の前半で、原文はこのあと「これが解放であり、これが自由人の信仰だ」と結ばれる。後年『幸福論』を書く人物とは思えないほど禁欲的だが、若い日の彼はここから出発した。同じ人の中に両方があると知るのは、悪くない。
名言24【バートランド・ラッセル】評価されないのは周りのせいか
自分で自分の価値を過大評価しないように。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第8章「被害妄想」
『幸福論』第8章「被害妄想」で、ラッセルが被害妄想の予防として挙げた四つの格言のうち二番目。原文の言葉は「価値」より「長所」に近い。例に出すのは、劇がめったに上演されず、上演されても当たらない劇作家だ。世間の陰謀だと考える前に、作品がよくないという仮説を冷静に検討してみよ、と。耳は痛いが、責めているのではない。思い込みを一つ外せば、腹を立てる相手が減る、という親切だ。
名言25【バートランド・ラッセル】失敗が世界の終わりに思える夜
自分に起こるどんなことも、宇宙から見ればまったく取るに足らないことだ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第5章「疲れ」
『幸福論』第5章「疲れ」で、名言3の不安への対処法を説明する中に出てくる。原文は「最悪でも、自分に起きることが宇宙的な重要性を持つことはない」という趣旨で、日本語はそれを言い換えたものだ。「たいしたことではない」と思える根拠は常にある、その根拠がこれだ、とラッセルは言う。突き放しているようで、実は安心のために用意された言葉。失敗が世界の終わりに感じられるときほど、視点を宇宙まで引くと息ができる。
名言26【バートランド・ラッセル】理不尽な相手に腹が立つとき
行いの悪い者に腹を立てるのは時間の無駄である。 動かない車に怒るのと同じようなものだから。
(バートランド・ラッセル)
出典元:「哲学者になるには」(How to Become a Philosopher, 1942)、『The Collected Papers of Bertrand Russell』第10巻収録
1942年に書かれた短い文章「哲学者になるには」から。原文は「行いの悪い人に腹を立てるのは労力の無駄だ。動かない車に腹を立てるのと同じだ」という趣旨で、日本語の「時間」は原文では「エネルギー」にあたる。ラッセルは人の悪い行いを、機械の故障と同じ原因と結果の連鎖として眺める。怒りは正義感の証に見えて、たいてい自分を消耗させるだけだ。相手を動かない車だと思ってみる。怒りが消えなくても、少し力が抜ける。
名言27【バートランド・ラッセル】SNSを見て落ち込んだ夜に
他人と比較してものを考える習慣は、致命的な習慣である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第6章「ねたみ」
『幸福論』第6章「ねたみ」の中心にある言葉。ラッセルは、ねたみの原因を自分で理解するだけで治癒に大きく近づく、と述べたうえでこう続けた。何か楽しいことがあったら、それを存分に味わえばいい。誰かがもっと楽しんでいるかもしれない、と考えて立ち止まる必要はない、と。ラッセルの時代にSNSはなかったが、彼はすでに比較の習慣そのものを「致命的」と呼んでいた。楽しいことは、比べずに楽しむ。
名言28【バートランド・ラッセル】誰も自分を見ていないと知る
諸君が自分自身に対して関心を持つのと同じように、他人が自分に関心を持っているとは期待するな。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第8章「被害妄想」
名言25と同じ第8章「被害妄想」の四つの格言、その三番目。原文は「他人が、あなた自身がそうするほどあなたに関心を持つとは期待するな」という意味で、四番目には「大多数の人は、あなたを迫害したいと思うほどあなたのことを考えてはいない」と続く。厳しく聞こえるが、狙いは逆だ。誰も自分を見ていないと知れば、見られている恐怖も消える。失敗を周りがずっと覚えていると思うなら、たぶんそれは、自分だけが覚えている。
名言29【バートランド・ラッセル】愛する人の幸福と、自分の幸福
私たちが愛する人々の幸福を願うのは当然である。だが、自分達の幸福を棄ててまでこれを願うべきではない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(The Conquest of Happiness, 1930)
『幸福論』の終盤に置かれた一文。ラッセルが釘を刺しているのは、愛情が自己犠牲とすり替わる場面だ。家族や恋人のために自分の望みをすべて後回しにしていると、やがて相手への愛情が重荷や恨みに変わりかねない。自分の幸福を手放すことは、相手への贈り物にはならない。愛する人の幸せと自分の幸せを、両方とも手元に置いておく。そのほうが長く続く関係になるのだと、ラッセルは静かな筆致で言っている。
名言30【バートランド・ラッセル】成功のあとに待つ退屈
成功の暁、その成功をもってどうするかということを人間が教えられて来なかったとすれば、成功の達成も、つまるところは、その人間を退屈の餌食にするより他はないものである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第3章「競争」
『幸福論』第3章「競争」から。ラッセルが念頭に置いていたのは、成功だけを目標に働き続け、達成した途端に何をしていいかわからなくなる実業家の姿だ。金持ちになるほど余暇の使い道がわからなくなる、という描写の流れにある一文だ。昇進や目標達成がゴールのはずなのに、着いてみると空しかった経験はないだろうか。ラッセルは成功を否定していない。そのあとの時間の使い方を誰からも教わっていないことが問題だと見ていた。
名言31【バートランド・ラッセル】愛における慎重さ
あらゆる慎重さのなかで,愛における慎重さこそ,真の幸福にとっておそらく最も致命的である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第12章「愛情」
『幸福論』第12章「愛情」から。ラッセルは、傷つくことを怖れて愛情を出し惜しみする態度を、幸福にとって最も危険な慎重さと呼んだ。仕事や買い物では慎重さが身を守ってくれる。けれど人との関係では、まだ早い、確かめてからと構えているうちに相手も構え、何も始まらないまま終わることがある。慎重な自分を責める必要はない。ただ、怖さの手前で止まっている関係が一つでもあるなら、この言葉は少しだけ背中に触れてくる。
名言32【バートランド・ラッセル】飲酒は不幸の一時停止にすぎない
飲酒は一時的な自殺である。 飲酒がもたらす幸福は単に、消極的なものや不幸の一時的な中絶にすぎない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第1章「何が人々を不幸にするのか」
『幸福論』第1章「何が人々を不幸にするのか」から。ラッセルは不幸から逃げる手段の一例として飲酒を挙げ、それが与えるのは幸福ではなく不幸の一時停止にすぎないと切り分けた。いまなら酒に限らず、夜更かしの動画や際限のないスクロールにも同じことが言える。嫌な気分が消えたように感じても、翌朝には元の場所に戻っている。説教ではなく、消極的な幸福と積極的な幸福は別物だという、この本全体の土台を示した一節だ。
名言33【バートランド・ラッセル】人生を支配した三つの情熱
単純ではあるが圧倒的に強い3つの情熱が私の人生を支配した。それは、愛への熱望、知識の探求(欲)、そうして、人類の苦悩に対する耐え難い憐憫の情である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『自伝』第1巻(The Autobiography of Bertrand Russell, 1967)プロローグ「わたしは何のために生きてきたか」
1967年刊行の自伝第1巻の冒頭、「わたしは何のために生きてきたか」と題した序文の最初の一文。ラッセルはここで、自分の生涯を動かしてきたものを三つに絞って告白している。愛を求める気持ち、知りたいという欲求、そして人類の苦しみを放っておけない憐れみ。晩年の哲学者が出した答えは、驚くほど単純だった。自分を動かしているものを言葉にできずにいる人にとって、三つで足りるというこの告白は少し気が楽になる。
名言34【バートランド・ラッセル】愛を怖れることは生命を怖れること
愛を怖れることは生命を怖れることだ。 そして生命を怖れる者はすでに、四分の三、死んでいるのと変わらない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『結婚論』(Marriage and Morals, 1929)第19章
『結婚論』第19章から。ラッセルはこの本で、恐怖に支配された道徳が人の生命力を削ぐことを繰り返し批判した。愛を怖れるとは、傷つく可能性を避けて人と深く関わらずに生きることだ。安全に見えて、生きていることの大半を手放している。四分の三という数字の置き方に、ラッセルらしい辛辣さがある。もう誰にも期待しないと決める時期は、たいていの人にある。その期間を損失と呼んだところに、この言葉の誠実さがある。
名言35【バートランド・ラッセル】互いに生命を与え合う愛情
最上のタイプの愛情は、相互に生命を与え合うものだ
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第12章「愛情」
『幸福論』第12章「愛情」から。原文はこの一文のあと、互いに喜びをもって愛情を受け取り、無理なく与え合う関係だと続いている。ラッセルはこの章で、不安から安全を求めるだけの愛情を、これとはっきり区別した。片方だけが元気になる関係は、どこかで息切れする。一緒にいると自分がよく働き、よく笑えるようになる相手がいるなら、それは最上のタイプに近い。関係の良し悪しを、自分の生命力で測る見方だ。
名言36【バートランド・ラッセル】結婚に多くを期待しない
結婚生活は、双方がそこから多くの幸せを得ることを期待しなければ、幸福と呼べる可能性が高くなる。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『結婚論』(Marriage and Morals, 1929)
『結婚論』から。前の言葉と同じ主題を、さらに皮肉の効いた言い方で述べたもの。結婚に多くを期待する人ほど、現実との落差に失望しやすい。結婚がすべての幸福を供給する装置ではないと知っている人のほうが、結果として幸福な結婚を手にしやすいとラッセルは観察した。これは結婚に限らない。一つの相手に自分の幸福をすべて預けると、相手はその重さに耐えられなくなる。幸福の供給源を分散させておくという、現実的な知恵だ。
名言37【バートランド・ラッセル】恋愛と出世、どちらも犠牲にしない
恋愛のために出世をすべて犠牲にするのは、痛ましくも英雄的である場合もあるが、愚行であろう。 だが、出世のために恋愛をすべて犠牲にすることも同じく愚行で、けっして英雄的ではない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『結婚論』(1929)第9章「人生における恋愛の位置」
『結婚論』第9章「人生における恋愛の位置」から。ラッセルは、恋愛のためにキャリアを投げ出すことを悲劇的な英雄行為になりうると認めつつ、愚行だと断じた。その上で、逆の選択には英雄らしさすら無いと付け加えている。対称に見える二つの愚行を、非対称に評価するところがラッセルらしい。仕事のために人との関係を後回しにし続けることは、犠牲の実感が薄いぶん気づきにくい。どちらも切り捨てなくていい、という考え方だ。
名言38【バートランド・ラッセル】父親の存在理由
父親の生物学的機能は、子供をその無力のあいだに保護することである。 この生物学的機能が国家に継承されるならば、父親はその存在事由を失う。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『結婚論』(Marriage and Morals, 1929)
『結婚論』から。ラッセルはこの本で、家族という制度が国家や社会の変化によってどう揺らぐかを分析している。父親の役割は生物学的には子どもを守ることにあり、その機能を国家が肩代わりすれば、父親という存在の根拠が薄れる。励ましではなく、社会学的な観察として読むほうがいい。教育や福祉が整うほど父親の居場所が曖昧になるという指摘は、現在の家庭の話に驚くほど近い。父親の役割を自分で定義し直す時代の予告だ。
\ 言葉は、探しにいかなくてもいい /
気合いを入れる言葉より、そっと隣にいてくれる言葉が欲しい日があります。iPhoneアプリ「
ポケットAnchor」は、アプリ独自のコレクションから毎日ひとつを選び、ウィジェットに映します。20種類以上のカテゴリーから、今の自分に近いものを選んでおけます。基本機能は無料です。
名言39【バートランド・ラッセル】愚か者の確信と、知的な人の疑念
現代社会における混乱(揉め事)の根本的な原因は,愚か者が確信過剰である一方,知的な人々が疑念に満ちていることにある。
(バートランド・ラッセル)
出典元:エッセイ「愚かさの勝利」(The Triumph of Stupidity, 1933)、『Mortals and Others』第2巻所収
1933年にアメリカの新聞向けに書いたエッセイ「愚かさの勝利」の一節。ラッセルは、根拠の薄い主張ほど大声で語られ、慎重に考える人ほど口が重くなるという構図を、時代の混乱の根本原因だと診断した。この構図はSNSの時代にそのまま当てはまる。自信満々の断言に押されて、よく考えた意見を引っ込めた経験はないだろうか。疑いを持つ人が沈黙するほど構図は固定される。疑いを抱えたままでも発言する側に回る価値はある。
名言40【バートランド・ラッセル】絶対的な確信を持たないこと
絶対的な確信を持たないことは,私が思うに,合理性に不可欠なことの一つである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:エッセイ「私は無神論者か不可知論者か」(Am I an Atheist or an Agnostic?, 1947)
1947年のエッセイ「私は無神論者か不可知論者か」から。宗教をめぐる自分の立場を説明する文脈で、ラッセルは合理性の条件として、絶対的な確信を持たないことを挙げた。神の不在を証明できないから無神論者とは名乗りきれない、という慎重さの裏付けになっている一文だ。日常では、確信が持てないことを弱さのように感じやすい。けれどラッセルの定義では、絶対だと言い切らない態度こそが合理的な人の印になる。
名言41【バートランド・ラッセル】情熱で語られる意見ほど根拠がない
情熱をもって信奉されている意見は,常に十分な根拠のないものである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『懐疑論集』(Sceptical Essays, 1928)序論
『懐疑論集』の序論から。ラッセルはこの文のあとに、情熱の強さはむしろ合理的な確信の乏しさの尺度だと続けている。根拠が十分にあることは、声を荒げなくても伝わる。足りないものを熱量で埋めようとするとき、人は強く断言する。会議で声の大きい意見に押されそうなとき、この観察は役に立つ。熱量と正しさは別の軸だと分かっていれば、静かに根拠を尋ねる余裕が生まれる。自分が妙に熱くなっている意見を見直す材料にもなる。
名言42【バートランド・ラッセル】懐疑主義は怠惰の結果
知的な人々の懐疑主義は彼らの無力の原因であり,それ自体,彼らの怠惰の結果である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:エッセイ「現代の不確実性について」(On Modern Uncertainty)、『Mortals and Others』第1巻所収
『Mortals and Others』第1巻所収のエッセイ「現代の不確実性について」から。前の数件で確信のなさを擁護してきたラッセルが、ここでは懐疑の側を叱っている。疑うことは大切だが、疑いを理由に何もしないなら、それは知性ではなく怠惰だという指摘だ。狂信者が動く一方で考える人が傍観すれば、世界は前者のものになる。確信がないまま決めて動く手間を引き受けるのが、知的な人の責任だと読める。
名言43【バートランド・ラッセル】考えるくらいなら死ぬほうがいい
大部分の人は,考えるくらいなら死ぬほうがよいと思っている。そして,実際,死んでいく。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『相対性理論ABC』(The ABC of Relativity, 1925)第11章
1925年の『相対性理論ABC』第11章に出てくる一文。物理学の解説書の中で、新しい考え方を受け入れたがらない人間の性質を皮肉った箇所だ。考えるくらいなら死んだほうがましで、実際そうしている、という二段構えの毒がラッセルの真骨頂だ。考えるのが怖い日は誰にでもある。そんな日は、一つだけ疑ってみれば十分だ。
名言44【バートランド・ラッセル】あなた自身の人間性を思い起こせ
あなた自身の人間性を思い起こせ,そして残りのことを忘れよ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:ラッセル=アインシュタイン宣言(1955年7月9日、ロンドンで発表)
1955年7月9日、ロンドンで発表されたラッセル=アインシュタイン宣言の結語。核戦争の危機を前に、科学者たちが東西の立場を超えて核兵器の廃絶を訴えた文書だ。この一文の直前には、人間として、人間に訴えるという呼びかけが置かれている。忘れよと言われる残りのこととは、国籍や陣営や立場のことだ。対立が激しくなるほど、相手を立場で見てしまう。その手前で人間に戻れという呼びかけは、職場やSNSの衝突にも届く。
名言45【バートランド・ラッセル】違う意見に腹を立てない
自分の意見と違う意見に腹を立てず、そういう意見が出た理由を理解しようとする術を学ぶことが大事である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:バートランド・ラッセルの言葉として広く紹介されている言葉
出典となる著作はまだ特定できておらず、日本語でラッセルの言葉として広く紹介されている形で載せている。ラッセルが別のエッセイで書いているのは、意見の違いに腹が立つなら自分の根拠が弱い印だという観察で、この言葉はそれと同じ方向を向いている。腹を立てる代わりに、なぜその意見が出てきたのかを知ろうとする。相手の経験や立場をたどると、同意はできなくても理解はできることが多い。
名言46【バートランド・ラッセル】独断的に信ずる習慣
世界の災いの一つは、何か特定のことを独断的に信ずる習慣である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:1952年のインタビューでの発言
1952年のインタビューでの発言をもとに伝わる言葉。逐語ではなく趣旨をまとめた形で流通しているが、ラッセルが同じ主張を繰り返していたことは複数の記録で確かめられる。独断的に信じるとは、根拠を問われても検討しない状態のことだ。ラッセルは信じること自体を責めていない。信じ方の問題だと言っている。強く信じていることほど疑う機会は少ない。長く疑っていない前提を一つ選んで、なぜそう思うのかを確かめてみる。
名言47【バートランド・ラッセル】自分の意見に疑いをまじえる
理性的な人間なら、自分が絶対に正しいなどとむやみに信じたりはしないだろう。 私たちは常に、自分の意見にある程度の疑いをまじえなければいけない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:テレビ番組「A Conversation with Bertrand Russell」(1952)での発言
1952年のテレビ番組「A Conversation with Bertrand Russell」での発言から。ラッセルは質問に答える形で、理性的な人の条件をこう語った。話し言葉なので、この記事の中でも特に平易で率直な一節だ。自分の意見に疑いをまじえるとは、意見を持たないことではない。意見を持ったまま、間違っていた場合の出口を開けておくことだ。最初から疑いを混ぜておけば、訂正は敗北ではなくなる。
名言48【バートランド・ラッセル】信じる物を持たないではいられない
人間は物を信じやすい。 信じる物を持たないではいられない。 信じるべき良い理由が無ければ悪い理由でも満足する。
(バートランド・ラッセル)
出典元:エッセイ「An Outline of Intellectual Rubbish」(1943)、『Unpopular Essays』(1950)所収
『Unpopular Essays』所収の「An Outline of Intellectual Rubbish」から。ラッセルはここで、人類が信じてきた迷信や偏見を、ユーモアを交えて列挙している。人は何かを信じずにはいられず、良い理由がなければ悪い理由で間に合わせる。他人を笑うための観察ではない。不安なときほど手近な説明に飛びつきたくなるのは誰も同じで、強く信じ始めた自分に気づく手がかりになる。
名言49【バートランド・ラッセル】突飛な意見を恐れるな
突飛な意見を持つことを恐れるな。 今日認められている意見は皆、かつては突飛だったのだ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:「自由主義者の十戒」(A Liberal Decalogue)第7項、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』1951年12月16日号(のち『自伝』第3巻に再録)
1951年12月16日の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』に寄せた「自由主義者の十戒」の第7項。狂信への最良の答えは自由主義だと論じた記事の末尾に、教師として広めたい十の戒めとして置かれた。地動説も女性の参政権も、最初は突飛な意見として扱われた。突飛なら正しいわけではないことは、次の言葉でラッセル自身が釘を刺している。周りと違う考えを、それだけで引っ込める理由はない。
名言50【バートランド・ラッセル】反抗それ自体に価値はない
権威に対する抵抗それ自体にすでに価値があるのだとか、普通でない意見は当然正しいはずであるなどと考えたがるのは、非常に危険である。 街灯に石を投げたり、シェイクスピアは詩人でない、と主張したりしても、有益な目的にはまだ何の役にも立たないのである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『怠惰への讃歌』(In Praise of Idleness, 1935)所収「教育と訓練」
『怠惰への讃歌』所収の「教育と訓練」から。前の言葉と対になる一節で、ラッセルは反抗それ自体を美徳と見なす態度に警告している。街灯に石を投げるのも、シェイクスピアは詩人ではないと言い張るのも、権威に逆らってはいるが何の役にも立たない。突飛な意見を恐れるなと言った同じ人が、突飛なら正しいとは限らないと言う。この両方を同時に持てることが、ラッセルの言う自由な知性だ。逆張りが格好よく見えるときほど効く。
名言51【バートランド・ラッセル】本を読む二つの動機
本を読む動機は二つある。 一つは楽しむため、もう一つは自慢するため。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第3章「競争」
『幸福論』第3章「競争」から。成功と体面を競い合う人々の生活を描く中で、ラッセルは読書までが自慢の材料になっている様子を皮肉った。楽しむための読書と、読んだと言うための読書。後者ばかりになると、本を閉じたあとに何も残らない。話題の本を追いかけて疲れている人には耳の痛い一言かもしれない。ただ、自慢のために読んだ本が思いがけず楽しくなることもある。どちらの動機で本を開いているかを、笑って気づかせる。
名言52【バートランド・ラッセル】優柔不断ほど疲れることはない
優柔不断ほど疲れることはない。 そして、これほど大きなエネルギーの無駄もない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第5章「疲れ」
『幸福論』第5章「疲れ」から。ラッセルはこの章で、現代人を消耗させているのは肉体労働ではなく神経の疲れだと分析した。その代表が、決めきれずに同じ問題を何度も考え直す癖だ。同じ章でラッセルは、材料が揃ったら考え抜いて決め、新しい事実が出てこない限り決定を蒸し返さない、と勧めている。迷い続けている間は何も進まず、エネルギーだけが減っていく。決断の正しさより先に、決断を終わらせる価値を説いた一節だ。
名言53【バートランド・ラッセル】恐怖の上に善い人生は築けない
良い人生(善い人生)は,恐怖心や禁止や自由に対する相互の干渉の上に築くことはできない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『結婚論』(Marriage and Morals, 1929)
『結婚論』から。ラッセルは性道徳をめぐる議論の中で、恐怖と禁止によって人を縛る道徳を批判し、善い人生の土台を別のところに求めた。怒られないように、嫌われないように、という動機で動く時間が長いほど、何かを達成しても空虚さが残る。互いの自由に干渉し合う関係も同じだ。恐怖を取り除けば人は堕落するという見方への反論でもある。自分を動かす動機が恐怖に偏っていると気づいたとき、方向を変える手がかりになる。
名言54【バートランド・ラッセル】愛に鼓舞され、知識に導かれた人生
素晴らしい人生とは、愛に鼓舞され、知識に導かれた人生だ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『What I Believe』(1925)
1925年の『What I Believe』から。原文の「good life」は善い人生という倫理的な意味で、ラッセルはこれを本の核心となる定義に置いた。愛だけでは方向を誤り、知識だけでは冷たくなる。二つが揃って初めて善い人生になるという、簡潔で有名な一文だ。日本語では素晴らしい人生と訳されているが、原文の語感は善い人生に近い。足りないのが愛か知識かに見当をつけるだけで、次の一歩は変わる。
名言55【バートランド・ラッセル】90歳の誕生日に語った信条
私にはごく単純な信条がある。それは,人生と喜びと美が,塵のような死よりも善い,ということだ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:90歳の誕生日祝賀会でのスピーチ(1962年5月18日)
核兵器への反対運動に晩年の力を注いでいたラッセルが、90歳の祝いの席で口にした一行だ。難解な論理の体系を築いた人が最後に残した信条は、驚くほど単純だった。生きていること、喜び、美しいもの。それらは死よりも善い。それ以上の理屈は付けていない。暗い報せが続く時期ほど、この順番を思い出したくなる。まず生きていることを善いとみなし、そこから考え始めればいい。
名言56【バートランド・ラッセル】ルールが多すぎる職場と何でもありの職場
自由が少なすぎると停滞を招き,自由が多すぎると混乱を招く。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『権威と個人』(1949)BBCリース講義 第3回「個性の役割」
1948年末から翌年にかけて、ラッセルはBBCの連続講義で、個人の自由と社会の秩序をどう両立させるかを論じた。この一文は第3回「個性の役割」に出てくる。自由が足りなければ人は動けなくなり、多すぎれば誰も決められなくなる。どちらも息苦しいという指摘だ。承認が何段階も要る会社では停滞が、方針のない会社では混乱が起きる。自分の疲れがどちらから来ているのか。それを見分けるだけで、次に打つ手が変わってくる。
名言57【バートランド・ラッセル】周りと同じにならなくていい理由
因襲にぜんぜん屈服しない男女から成り立つ社会のほうが、みんなが画一的になるような社会よりも面白い社会であろう。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第9章「世評に対する恐怖」
『幸福論』で世間の目を恐れることを扱った章の言葉だ。訳文は「ぜんぜん屈服しない」と強く響くが、原文の趣旨は「因襲に屈しすぎない」人びとの社会のほうが面白い、という程度の温度である。反抗を勧めているのではなく、全員が同じ振る舞いをする社会の退屈さを指している。周囲に合わせて自分を削っていると感じるとき、この言葉は少し楽にしてくれる。全部に逆らわなくていい。でも全部に合わせなくてもいい。
名言58【バートランド・ラッセル】自分の幸せを願うだけでは足りないとき
人はみな、自分の幸福を望んでいる。 しかし、文明の技術の上で一つとなった今日の世界では、他人の幸福を望む気持ちが一つにならない限り、自分の幸福を望んでも無駄である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:バートランド・ラッセルの言葉として広く紹介されている言葉
誰もが自分の幸福を望む。その当たり前から始めて、つながった世界では他人の幸福を願う気持ちが揃わない限り、自分の幸福も叶わないと続ける。ラッセルが晩年に訴え続けた世界観と響き合う言葉だ。身近な規模でも同じことが起きる。チームの一人だけが楽になる働き方は長続きせず、家族の一人だけが我慢する暮らしもいつか崩れる。自分の幸せを願うことは悪くない。ただ、その願いは隣の人の幸せと切り離せないのだ。
名言59【バートランド・ラッセル】自分がいなくなった後の世界を想像する
人間は「自分の死後に、何が起ころうとしているのか」に思いをはせることが大事である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:バートランド・ラッセルの言葉として広く紹介されている言葉
来世の話ではなく、自分がいなくなった後の世界を想像してみる、という意味で受け取れる言葉だ。少し怖い問いだが、意外と足元を軽くしてくれる。いま抱えている失敗や焦りの多くは、数十年後の誰かから見ればほとんど跡を残さない。逆に、人に親切にしたことや残した仕事の一部は、思いがけず長く残ることがある。何が残り、何が消えるのか。それを考えると、力の入れどころが見えてくる。
名言60【バートランド・ラッセル】支配される側に自尊心が育ちにくい理由
権力の不平等のあるところでは、いずこにおいても、自尊心は、他人の支配に屈服している人間の間では見当たりそうもない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『権威と個人』(1949)
権力に大きな差があるところでは、支配される側に自尊心は見当たりにくい。ラッセルはこれを個人の弱さではなく、構造の問題として書いている。技術と人間性の衝突を論じた講義の中の言葉だ。意見を言っても通らない部署に長くいると、自分の判断そのものを信じられなくなっていく。それは性格の欠陥ではなく、力の偏りが生む自然な反応である。自信が持てない原因を、自分の内側だけに探さなくていい。
\ 明日の自分に、ひとつ言葉を渡すなら /
長い記事です。ひと息つくついでに、私たちのiPhoneアプリ「
ポケットAnchor」も紹介させてください。アプリ独自のコレクションから毎日ひとつ、ウィジェットに言葉が届きます。基本機能は無料です。
名言61【バートランド・ラッセル】働くこと自体が美徳という思い込み
私は、世界中があまりにも働きすぎ、労働それ自体がすでに立派であり美徳であるという信念が非常に大きな害を引き起こしているので、近代的工業国家に対して、これまで説いてきたのとは全く違ったことを説く必要があるのではないかと思う。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『怠惰への讃歌』(1932)
同じ論考の冒頭に置かれた言葉だ。ラッセルはこの直前で、自分も「怠け者の手には悪魔が仕事を見つける」という格言で育てられたと打ち明けている。そのうえで、労働そのものを美徳とみなす信念が大きな害をもたらしていると述べた。働くことの否定ではなく、働きすぎを立派と思い込む空気への疑いである。定時に帰ることに後ろめたさを覚えるとき、その出どころは自分ではなく、信念の側にある。
名言62【バートランド・ラッセル】自由な時間を楽しめる人の条件
ある民族がたくさんの余暇を持って幸福な気持ちになりうるには、その民族に教養がなければならない。 しかも、精神的な楽しみという観点からも、直接役に立つ技術的な知識という観点からも教育されていなければならない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『怠惰への讃歌』(1935)所収「無用の知識」
ラッセルは「無用の知識」と題した文章で、すぐ役に立たない知識こそが余暇を豊かにすると論じた。技術的な知識と精神的な楽しみ、両方の教育が必要だという指摘だ。休みの日に何をしていいか分からず、気づけば画面を眺めて終わっていた。そんな経験があると、この言葉の意味が分かる。自由な時間は、それを満たす中身があって初めて自由になる。意味のなさそうな寄り道が、休日の質を決めているのかもしれない。
名言63【バートランド・ラッセル】休みを上手に過ごすことの難しさ
知的に閑暇を満たし得ることは、文明の至上の産物である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第14章「仕事」
『幸福論』の仕事を扱った章の、冒頭近くにある一文だ。そして「いまのところ、この水準に達している人はごくわずかだ」と続く。仕事が幸福の条件になるのは、退屈を防ぎ、休みを楽しくするからだというのがラッセルの筋道だ。長い休みの終わりに、休んだはずなのに疲れている自分に気づくことがある。暇を知的に満たすのは、働くより難しい技術なのかもしれない。誰にとっても難しいことなので、できていなくても構わない。
名言64【バートランド・ラッセル】人の過ちの半分は退屈への恐れから
道徳を云々するものにとっては、退屈こそひとつの重要な問題である。 というのは、人類の罪悪の少なくとも半分は、退屈を恐れるあまりおかされるものであるから。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『幸福論』(1930)第4章「退屈と興奮」
ラッセルは『幸福論』で、退屈を避けるために刺激を追い続けることが、かえって幸福を遠ざけると書いた。退屈は敵ではなく、ある程度は耐える力を育てたほうがいいものだという考え方だ。深夜に意味もなく動画を見続けたり、必要のない買い物をしたりする。その多くは退屈への恐れから来ている。罪悪の半分とは大げさだが、思い当たる節は少なくない。退屈を受け入れられると、穏やかな時間が増えていく。
名言65【バートランド・ラッセル】余暇が文明を作ってきたという視点
有閑階級なしでは、人類は野蛮状態から脱却することはなかったであろう。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『怠惰への讃歌』(1932年初出、1935年書籍化)
ラッセルはこう認めたうえで、有閑階級が少数の特権だったことの不公平さも同じ文章で指摘している。芸術や学問を生んだのは、働かずに済む時間だった。ならば技術の進んだ時代には、その時間を一部の人ではなく全員に分けられるはずだという主張だ。休むことに罪悪感を持ってしまう人に、この視点は効く。何もしていない時間は、怠けではなく文明の材料だった。自分の余暇を、少しだけ誇っていい理由になる。
名言66【バートランド・ラッセル】教育が育てるのは答えではなく願い
教育なるものは、真理への願望を培うべきものであって、ある特定の信条が真理であるといった確信を涵養すべきものではない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『社会改造の原理』(1916)第5章「教育」
第一次世界大戦のさなかに書かれた本の、教育を論じた章の言葉だ。教育は真理への願望を育てるものであって、特定の信条が正しいという確信を植えつけるものではない。戦争へ向かう社会のなかで書かれた、静かな抵抗の言葉でもある。読むと、職場で教え込まれてきた「正解」を思い返す。答えを覚えることと、知りたいと思い続けることは別のものだ。後者を失っていなければ、学び直しはいつからでも始められる。
名言67【バートランド・ラッセル】役に立つかどうかで学びを測る空気
大学は職業のための訓練学校になりつつある。 それは〈教養〉といったことにまったく無関心の金権主義者たちによって要請されているからである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『教育論』(1926)第18章「大学」
1926年のラッセルは、大学が職業訓練の場になりつつある背景に、教養へ無関心な金権主義者の要請があると名指しした。百年前の指摘だが、いまの学び直しを巡る空気とほとんど変わらない。すぐ収入につながる勉強だけが正しいと思い込むと、学ぶこと自体の楽しさが消えていく。資格のためでも転職のためでもない学びに覚える後ろめたさは、ラッセルが批判した空気を自分の内側に取り込んだ結果なのだと思う。
名言68【バートランド・ラッセル】好奇心にも種類があるという話
知性には、活発な好奇心が必要とされる。 しかし、それは特定の種類のものでなければならない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『教育論』(1926)第2章「教育の目的」
ラッセルは理想の人格を作る要素として活力・勇気・感受性・知性の四つを挙げ、知性の土台に好奇心を置いた。ただし、好奇心なら何でもいいわけではないと言う。暗くなってから隣家の窓をのぞきたがるような好奇心には、たいした価値がないと続けるのだ。他人の近況を追う時間は好奇心を使っているようで、実は心を疲れさせていく。同じ好奇心を、自分が本当に知りたい問いに向け直せばいい。
名言69【バートランド・ラッセル】人に関わる仕事で優しさが削れていくとき
不幸なことだが、過重な負担を負わされた教師にとって、子供たちへの本能的な好意を保持することはほとんど不可能であり、次第に、菓子屋の小僧はお菓子にうんざり、という格言と同じことを感じるようになるのは避けがたいであろう。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『怠惰への讃歌』(1935)所収「教育と訓練」
教育を論じた文章の、結びの段落にある言葉だ。ラッセルは教師を責めるのではなく、その労働環境を問題にした。負担を減らさなければ、どんな善意も摩耗するという現実を、菓子屋の小僧のたとえで言い当てている。保育や介護、接客など、人と向き合う仕事をしている人なら身に覚えがあるかもしれない。好きで選んだ仕事なのに、相手を好きでいられなくなる。それは資質ではなく量の問題であることが多い。
名言70【バートランド・ラッセル】死ぬことは語り、殺すことは語らない
愛国者はいつも自国のために死ぬことを語り,自国のために殺すことを語らない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『人類に未来はあるか』(1962)
核戦争への不安が最も高まっていた時代に出た本の一文だ。90歳前後のラッセルは、戦争を美しく語る言葉の裏側をこうして突いた。「国のために死ぬ」は犠牲の物語として受け入れられるが、裏返せば「国のために誰かを殺す」でもある。語られない半分を言葉にすることが、ラッセルの批判の作法だった。何かを称える言葉を聞くとき、何が語られていないかを一緒に考えてみる。それだけで向き合い方が変わってくる。
名言71【バートランド・ラッセル】皮肉として書かれた愛国心の定義
愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『懐疑論集』(1928)第14章「教育における自由と権威」
ラッセルは国家が学校で教え込むものを並べていく途中で、「愛国心」をわざと「つまらない理由で殺し、殺されることを厭わない態度」と言い換えている。日本語訳は原文より短く整えられているが、皮肉の切れ味はそのままだ。第一次世界大戦で反戦を訴えて大学を追われた人の言葉なので、軽い冗談では済まない。愛国心そのものの否定というより、国家が教育を通じてそれを刷り込む仕組みへの疑いなのだ。
名言72【バートランド・ラッセル】ファシズムを見分ける四つの傾向
ファシズムが展開するもととなった精神的体系の創始者たちは、すべてある共通の特徴を持っている。 彼らは、議論よりも暴力を、平和よりも戦争を、民主主義よりも貴族政治を、科学的客観性よりも宣伝を優位におく。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『怠惰への讃歌』(1935)所収「ファシズムの祖先」
ヒトラーが政権を握って二年、ラッセルはファシズムの思想的な系譜をたどる文章を書いた。その創始者たちに共通するものとして挙げたのが、議論より力、平和より戦争、民主主義より貴族政治、科学的な公平さより宣伝を好む態度だ。原文は「暴力」より「力」、「客観性」より「公平さ」に近い語だが、鋭さは変わらない。怒鳴るのではなく、冷静に四つ並べて見せる。いまも誰かの主張を聞くときの点検表として使える。
名言73【バートランド・ラッセル】社会主義と宗教は別の話だという整理
社会主義は宗教とは何の関係もない。 それは経済理論であって、いかなるキリスト教徒、いかなる回教徒、仏教徒あるいはバラモンの帰依者も、何らの論理的矛盾なしに社会主義者たりうるのである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『怠惰への讃歌』(1935)所収「社会主義擁護論」
社会主義は経済の理論であって、どんな信仰を持つ人でも矛盾なく支持できる。ラッセルはこう整理したうえで、自分の考える社会主義を擁護した。1920年に革命後のロシアを訪ねて失望した経験を持つ彼は、信仰のように絶対視される社会主義にはむしろ批判的だった。この文章の面白さは、思想を「信じるもの」から「検討するもの」へ引き戻しているところだ。どんな主義も、信仰にしてしまった瞬間に議論は止まる。
名言74【バートランド・ラッセル】上はいないが下もいないという矛盾
アメリカでは、人間はみな平等だから、社会的に自分より上の人はいないと誰もが思っている。 ところが、自分よりも劣る者はいないという点に関しては、誰も認めようとはしない。
(バートランド・ラッセル)
出典元:「人類に害を与えてきた思想」(1946。『Unpopular Essays』1950所収)
人類に害を与えてきた思想を論じた文章の中で、見下しの心理を描いた一節だ。思わず苦笑するほど正確な観察だ。上の人を認めない自由は手に入れたのに、誰かを見下す快感は手放せない。平等を望む気持ちと、優越を望む気持ちが同じ人の中に同居しているのだ。SNSで他人の暮らしを眺めてざわつく感情も、おそらくこの構図の中にある。気づけるだけで、比べる苦しさから少し距離が取れる。
名言75【バートランド・ラッセル】道徳のものさしは動き続けている
道徳律はつねに変化している。
(バートランド・ラッセル)
出典元:BBC放送でのコプルストン神父との討論(1948)
1948年、ラッセルは神の存在をめぐって、イエズス会のコプルストン神父とラジオで討論した。道徳法則から神の存在を導く議論に返したのがこの言葉で、続けて、かつては人食いを義務と考える社会があったことを例に挙げている。昔は当たり前だった働き方や家族観が、いまは通用しないのと同じ構図だ。自分の中の「普通」も、変わる途中の形にすぎない。他人の違う基準に、少し寛容になれる。
名言76【バートランド・ラッセル】良心をもって残酷になれる人たち
良心をもって残酷の苦患を加えることが、道徳主義者には一つの喜びなのだ。 これこそ彼らが「地獄」を発明した理由だ。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『懐疑論集』(1928)第1章「懐疑主義の価値」
『懐疑論集』の冒頭の章で、ラッセルは確信を持った人間の危うさをこう皮肉った。悪意から人を傷つける人より、正しさを信じて人を罰する人のほうが手加減を知らない、という観察だ。「残酷の苦患」という古い訳語が残っているが、意味は明快である。正義の顔で誰かを追い詰める光景は、いまのネット上でも日々見かける。自分が正しいと感じて誰かを責めたくなるとき、この一行を思い出すと手が少し止まる。
名言77【バートランド・ラッセル】すぐ役に立たない知識の価値
偉大な進歩は全て最初は純粋に理論的なものであり,のちになってはじめて実際に応用可能であることがわかる。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『教育論』(1926)第18章「大学」
ラッセルは子どもの教育を論じた本の中で、役に立つかどうかで学問を選別する考え方に釘を刺した。数学の基礎研究に人生の前半を注いだ人の実感でもある。仕事で「それ、何の役に立つの」と言われて黙ってしまった経験があるかもしれない。その問いに即答できないことは、価値がないことの証明にはならない。役に立つかどうかは、いつも後から分かる。分からないまま続けていい領域が、人生には必要だ。
名言78【バートランド・ラッセル】数学を定義した冗談
数学は,自分が何について話しているかも分からず,また自分が言っていることが真であるかどうかも分からない学問として定義することができる。
(バートランド・ラッセル)
出典元:論文「数学の原理に関する最近の研究」(International Monthly, 1901)
1901年、二十代のラッセルが論文の中で書いた定義だ。数学の記号は特定の対象を指さず、公理から導かれる形だけで成り立つ。その抽象性を、わざと自虐的に言い切ってみせた。数学を論理から基礎づける大仕事に取りかかっていた時期で、この冗談は真剣な作業の副産物である。厳密さを極めた人ほど、自分の仕事を笑える余裕を持っている。難しいことに取り組むとき、この余裕は意外と大事な装備になる。
名言79【バートランド・ラッセル】永遠に正しいものがあると信じたくなるとき
純粋数学は恒久的で狂いのない真理と、また感覚を超えた理知の世界が存在することへの確信の、主たる源泉である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『西洋哲学史』(1945)第3章「ピタゴラス」
『西洋哲学史』でピタゴラスを論じた章の言葉だ。数学の証明は時代や気分に左右されない。その体験が、変わらないものへの信頼を人類に与えてきたという見立てである。揺れる日々のなかで、何か確かなものにすがりたくなる気持ちは誰にでもある。ラッセルは同じ章で、数学が哲学に与えた影響は「深く、そして不幸だった」とも書いている。確かさを求める心を否定せず、同時に疑いも忘れない。両方を持つのが彼の流儀だった。
名言80【バートランド・ラッセル】数学者を音楽家にたとえた理由
純粋数学者は音楽家と同じように、整えられた美しさを持つ独自の世界を自由に作り出す創作家である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『西洋哲学史』(1945)第3章「ピタゴラス」
『西洋哲学史』のピタゴラスの章で、ピタゴラス派の見方を「真実でなくとも自然に思える」ものとして紹介する一節だ。何もないところに整った構造を立ち上げる行為を、創作にたとえている。自分の仕事に創造性がないと感じている人にとって、この見方は少し救いになる。表計算の仕組みを組むことも、手順を整理することも、見方を変えれば秩序ある小さな世界を作る作業である。整った構造を作る喜びは、手の届くところにある。
名言81【バートランド・ラッセル】冷たく厳しい美しさについて
数学の美しさは、我々の天性の最も弱い部分に訴えることはなく、絵画や音楽のキラキラするような外形も持たない。 だが、最高の芸術だけが我々に示すことのできるような、高い純粋性と厳密な完成度を持った美しさである。
(バートランド・ラッセル)
出典元:「数学の研究」(1902年執筆、1907年初出。『神秘主義と論理』1918所収)
三十歳前後のラッセルが数学について書いたエッセイの一節だ。原文では「彫刻のように冷たく厳しい美」とも形容している。派手さがないものの価値を言葉にするのは難しい。地味な作業の積み重ねや、人目につかない丁寧な仕事にも、この種の美しさがある。誰にも褒められなくても、整っていることそのものに価値を見いだせる人は、仕事の支えを自分の内側に持てる。
名言82【バートランド・ラッセル】愛だけでも科学だけでも足りない
科学がなければ、愛は無力である。 愛がなければ、科学は破壊的である。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『教育論』(1926)第13章「保育学校」
幼い子どもを預かる保育学校の意義を論じた章の言葉だ。子どもを愛するだけでは健康も発達も守れないし、知識だけで扱えば子どもは壊れてしまう。ラッセルは育児の場面で、この両輪を説いた。大切な人を思う気持ちがあっても、正しい知識がなければ助けられないことがある。逆に、正しいことを知っているだけで思いやりがなければ、言葉は刃になる。いま欠けているのはどちらだろうか。
名言83【バートランド・ラッセル】知っていることと知らないことの境目
科学は既に知っていること。 哲学は未知のこと。
(バートランド・ラッセル)
出典元:『Unpopular Essays』(1950)所収「一般人のための哲学」
ラッセルは一般の読者に向けて哲学を説明した文章の中で、二つの境目をこう引いた。答えが出て方法が定まった問いは科学へ移り、まだ答えのない問いが哲学に残る。哲学を特別な人の営みではなく、誰もが抱える「分からないこと」の領域として示した言葉だ。分からないことを抱えたまま進む時間は長くある。答えが出ないことを、能力不足だと思わなくていい。人類全体がまだ知らない領域にいるだけかもしれないのだ。
まとめ
83の言葉を通して見えてくるのは、ラッセルが幸福を「外に向けた関心」から生まれるものと考えていたことだ。自分の内側ばかり見つめるのではなく、人や物事や世界に興味を向けたとき、人は自然と幸福に近づく。仕事も余暇も教育も、その関心を育てる場として語られていた。自分を責める時間が長い人ほど、視線を外へ向けるこの考え方は、少し楽な姿勢に感じられるかもしれない。
もう一つ通底しているのは、確信しすぎないことだ。ラッセルは戦争も道徳家も、自分の正しさを疑わない人びとの危うさとして描いた。同時に、確かなものを求める気持ちそのものは否定していない。信じながら疑う、疑いながら進む。その両立はすぐにはできなくても、持っていたい姿勢である。迷いの多い日々のなかで、この哲学者の言葉のどれか一つが、考え続けるための足場になればと思う。
📚 あわせて読みたい
【関連】アランの名言44選|『幸福論』に学ぶ幸せをつくる意志の言葉
【関連】ソクラテスの名言100選|出典つき解説と誤って伝わる言葉の見分け方
【関連】ニーチェの名言50選|孤独・強さ・生き方を問う言葉と解説