モーツァルトの名言39選|父や妻への手紙に残る本音の言葉

父レオポルト・妻コンスタンツェ・姉ナンネルへの手紙を中心に、宛先や日付をたどれるモーツァルトの名言39を集めました。就職に失敗し、無気力に沈み、それでも努力を隠さず書き続けた一人の人の声を、手紙の状況とともに解説します。
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの名言を、手紙を中心に39集めました。出どころのわからない語録ではなく、父レオポルト、妻コンスタンツェ、姉ナンネルらに宛てた書簡など、宛先や日付をたどれる言葉を選んでいます。
手紙の中の彼は、神童でも天才でもありません。21歳で仕官を断られ、22歳でパリで無気力に沈み、母を失い、借金に追われながら、努力を隠さず語った一人の働く人です。時期順に6つに分け、誰に、いつ、どんな状況で書かれた手紙かを添えて解説します。

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モーツァルトとはどんな人物か

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)は、ザルツブルク生まれの作曲家です。宮廷音楽家だった父レオポルトに連れられ、幼いころからヨーロッパ各地を演奏旅行しました。1781年、ザルツブルク大司教のもとを離れてウィーンに移り、特定の主人を持たない音楽家として活動します。1782年にコンスタンツェ・ウェーバーと結婚。『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』などを残し、1791年12月、35歳で亡くなりました。家族への手紙が多数残っており、その肉声が人物像を伝えています。

モーツァルトの名言39選

39の言葉を、時期ごとに6つに分けました。14歳の旅から35歳の臨終まで、ほぼ時間の順に並んでいます。各名言の下には、その言葉が誰に、いつ、どこから書かれたものかを出典として記しました。

少年時代の旅から、21歳の就職活動へ(名言1〜9)

名言1【モーツァルト】14歳の夏、ボローニャから届いた言い訳

私のペンは音楽を書くためにしか使えない。手紙を書くためではない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:姉ナンネルへの追伸(ボローニャ、1770年8月4日)
1770年8月4日、イタリア旅行中のボローニャから。父が書いた手紙に、14歳のモーツァルトが添えた追伸の一節です。短い追伸しか書けないことへの、少年らしい言い訳。けれど言い訳の形を借りて、自分の得意と不得意をはっきり言っています。この年の秋、彼はボローニャの音楽アカデミーの試験に合格し、年末にはミラノで自作のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』を上演しました。

名言2【モーツァルト】20歳、恩師マルティーニ師への手紙の一節

私たちはこの世に生きるために常に勤勉に学び、議論によって互いに啓発し合い、科学と芸術の進歩を力強く促進するよう努めるべきだ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:パードレ・マルティーニへの書簡(ザルツブルク、1776年9月4日)
1776年9月4日、ザルツブルクから、ボローニャで対位法を教わった老師マルティーニへ。自作のモテットを同封して批評を頼んだ段落の、すぐあとに置かれた一節です。この手紙の筆跡は父レオポルトのもので、文面にも父の意図がにじみます。それでも、宮廷の雇われ音楽家として窮屈な日々を送る20歳の名で師に送られた「学び、議論し合い、前へ進むために生きる」は、父と子が共有していた信条だったと読めます。

名言3【モーツァルト】ザルツブルクを出た直後、父へ

あの策略から逃れてから、頭が羽のように軽くなった。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ミュンヘン、1777年9月26日)
1777年9月、21歳のモーツァルトはザルツブルク大司教のもとを辞め、母とともにミュンヘンへ向かいました。仕える先を自分で探す旅の始まりです。到着して間もない9月26日、父への報告に書いたのがこの一文でした。息の詰まる職場を離れただけで、頭が羽のように軽い。給料も見通しもない旅の初めに、まず体の軽さが来た。重さに慣れきった人ほど、離れてみてはじめて、自分がどれだけ縮んでいたかに気づくものです。

名言4【モーツァルト】「空きがない」と言われたあと、ザルン伯爵に語った自負

ミュンヘン中の作曲家を集め、イタリア、フランス、ドイツ、イギリス、スペインから招いても構わない。私はその全員に対抗して書く自信がある。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ミュンヘン、1777年10月2日)
ミュンヘンでモーツァルトは選帝侯マクシミリアン3世に仕官を願い出ましたが、「空きがない」と断られます。その後、宮廷のザルン伯爵と話したときに言ったのがこの言葉で、1777年10月2日の手紙で父に報告しています。世界中の作曲家を集めても負けない、という21歳の宣言。断られた直後でも、自分の値段を下げなかった。手紙の報告には、その誇りがそのまま残っています。

名言5【モーツァルト】ドイツ語のオペラを聴いて、書きたくなった

ドイツ語の舞台を音楽で認知させることができたら、どれほど人気者になれるだろうか!これは必ずそうなるはずだ。私はジングシュピールを聞いて、書きたいという欲望で一杯になった。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ミュンヘン、1777年10月2日)
同じ10月2日の手紙。当時のオペラはイタリア語が主流で、ドイツ語で歌う「ジングシュピール」は格下に見られていました。それを聴いたモーツァルトは、職探しの最中なのに「書きたい」で頭が一杯になってしまう。この衝動は5年後、ウィーンで『後宮からの誘拐』として形になり、晩年の『魔笛』にまでつながります。職を探しに来た町で、職ではなく書きたいものを見つけて帰る。21歳の旅は、そういう旅でもありました。

名言6【モーツァルト】オペラの話を聞くだけで、我を忘れる

私はオペラの話を聞いたり、劇場に座ったり、歌声を聞いたりすると、すぐに我を忘れてしまう。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ミュンヘン、1777年10月11日)
1777年10月11日、ミュンヘン滞在の終わりごろの手紙です。仕官の望みは断たれ、父からは次の町へ向かうよう指示が届く。その焦りの中で、劇場に座れば我を忘れる、と書いています。計算も打算も飛んでしまうほど好きなものがある。それは職の有無とは別のところにある、この人の資産でした。何時間でも夢中になれるものを持っていることは、履歴書には書けなくても、人を立たせ続けます。

名言7【モーツァルト】8歳の少女の演奏に、音楽で一番大事なものを見た

彼女は音楽において最も必要で最も難しく最も重要なもの、すなわちテンポを習得することは決してないだろう。なぜなら幼いころから拍子を無視する習慣を意図的に身につけてきたからだ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(アウクスブルク、1777年10月23日)
アウクスブルクで、ピアノ製作者シュタインの娘ナネッテ(8歳)の演奏を聴いたあとの評です。身ぶりは大きいが拍子を軽んじている、と手厳しい。ただ言葉の芯にあるのは「音楽で一番難しいのはテンポだ」という、自分自身の基準でした。ちなみにこの少女は後に、ベートーヴェンの友人として彼の暮らしを支えた人です。厳しい評が、その人の終わりを決めるわけではない。そう思わせてくれる後日談です。

名言8【モーツァルト】いとこベーズレへ。ふざけた手紙の結び

ありとあらゆる友達に挨拶を送る。さようなら、馬鹿者よ。墓場まで真、真、真の愛を。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:従妹マリア・アンナ・テクラ(ベーズレ)への書簡(1777年11月)
1777年の秋、就職先を探す旅の途中でアウクスブルクに立ち寄ったモーツァルトは、従妹マリア・アンナ・テクラ、愛称ベーズレと親しくなります。旅先から彼女へ送った手紙は、言葉遊びと悪ふざけの連続で知られています。これはその結びの一節。「馬鹿者よ」と呼び合える相手に、「真」を三度重ねて愛を送る。ふざけながら本気、という手紙の温度が、ここにそのまま残っています。

名言9【モーツァルト】速く弾くのは、むずかしくない

ゆっくり演奏するより速く演奏するほうがやさしい。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(マンハイム、1778年1月17日)
1778年1月17日、マンハイムから父へ。アベ・フォーグラーがモーツァルトのピアノ協奏曲(K.246)を初見で、猛烈な速さで弾いて見せたことへの批評の中に出てくる言葉です。速く弾けば、音の抜け落ちも粗さもごまかせる。ゆっくり弾くと、ひとつひとつの音がむき出しになる。だから難しいのは遅さの方だ、と21歳のモーツァルトは言い、名のある先輩音楽家の演奏を、父への手紙の中で容赦なく切り捨てました。

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ザルツブルクを出た若いモーツァルトの手紙を、ここまで9つ読んでいただきました。iPhoneアプリ「ポケットAnchor」は、アプリ独自のコレクションから毎日ひとつ、ウィジェットに言葉を映します。3,000を超える名言から、その日の一枚が届く。基本機能は無料です。

マンハイムからパリへ。父に自分の道を告げ、挫折を知る(名言10〜17)

名言10【モーツァルト】「あの二人とパリへは行けない」と父に告げた理由

私は自分を知っている。そして宗教という感覚があるので、全世界の前でしても恥ずかしくないことしか決してしない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(マンハイム、1778年2月4日)
1778年2月4日の手紙。モーツァルトは、フルート奏者ヴェンドリングとオーボエ奏者ラムと一緒にパリへ向かう予定でした。それを断る理由として書いたのがこの一文です。ヴェンドリングには信仰がなく、ラムは放蕩者だから、と。自分を知っているから、誰に見られても恥じない行動しかしない、と22歳は言う。そして同じ手紙の後段で、ウェーバー一家とイタリアへ行く計画を切り出し、父を激怒させることになります。

名言11【モーツァルト】「教えて食べていけ」という父に答えた、使命の宣言

私は作曲家であり、楽長として生まれた。神が惜しみなく与えてくださった作曲の才能を、このように埋もれさせてはならない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(マンハイム、1778年2月7日)
1778年2月7日の手紙は、就職活動の中でいちばん本音の出た一通です。父はパリで音楽を教えて生計を立てることを勧めていました。息子は答えます。教えて食べていくことはできる。でも自分は作曲するために生まれた、と。「食べていけるか」より先に「何のために生まれたか」を置く。無謀にも見えますが、この順番を守ったから、後の作品があります。22歳が父に向けて書いた、いちばん率直な自己紹介でした。

名言12【モーツァルト】欲望に取り憑かれている、と父に書く

私はオペラを書きたいという欲望に強く取り憑かれている。ドイツ語よりもフランス語で、しかし両方よりもイタリア語で書きたい。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(マンハイム、1778年2月7日)
同じ2月7日の手紙の中の一節です。職もない、収入の当てもない。その状況で彼が父に伝えたのは、就職の見通しではなく「オペラを書きたい」という欲望でした。しかも言語の好みまで細かく。欲望を恥ずかしがらず、取り憑かれていると言い切れるのは、それが本物だと自分で知っているからです。後回しにしてきた「本当はこれがやりたい」を誰かに具体的に話すと、輪郭がはっきりしてくることがあります。

名言13【モーツァルト】パリでも受ける、と言われて答えた強み

私はほぼどんな様式でも取り入れ、まねることができる。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(マンハイム、1778年2月7日)
同じ2月7日の手紙。マンハイムの音楽家ヴェンドリングらは、モーツァルトならパリで必ず受ける、と請け合っていました。その流れで、彼が自分の強みとして挙げたのがこの一文です。幼いころから各地を旅し、イタリアの歌、フランスの舞曲、ドイツの対位法を、聴いては真似し、真似しては自分のものにしてきた。吸収と模倣の積み重ねが、22歳で「どんな様式でもまねられる」と言える土台になっていました。

名言14【モーツァルト】一つ確かなこと

一つ確かなことがある。私はこの試みを恐れない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(マンハイム、1778年2月7日)
2月7日の手紙にある短い一文です。パリで成功できるかはわからない。彼が確かだと言えたのは、結果ではなく「恐れない」という自分の状態だけでした。実際、パリでの半年は失意に終わります。それでもこの一文は嘘になりませんでした。恐れずに試みたこと自体は、結果とは別に残るからです。うまくいく保証がない場面で、確かだと言えるものを一つだけ持つ。22歳の彼が持っていたのは、それでした。

名言15【モーツァルト】パリで、完全な無気力に沈む

私はよく完全な無気力と無関心の気分に陥る。何も大きな喜びを与えてくれない。最も刺激的で励みになる考えは、あなた方が元気でいること、そして私が正直なドイツ人であるということだ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(パリ、1778年5月29日)
1778年3月にパリへ着いたモーツァルトは、貴族の家を回って売り込みますが、思うような仕事は得られませんでした。5月29日の手紙に書かれたのが、この告白です。何も楽しくない、無気力と無関心に陥る、と。約1か月後には同行していた母を失います。天才と呼ばれた人の22歳の春は、こんな景色でした。動けない時期に自分を責めたくなるとき、同じ底を見ていた人がいたと知ることは、少しだけ支えになります。

名言16【モーツァルト】母の死を家族に伝えてくれた友へ

金持ちは友情というものをまったく知らない。とくに生まれたときからの金持ちは。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:ブリンガー神父への書簡(パリ、1778年8月7日)
1778年7月3日、パリで母が亡くなりました。モーツァルトは父にすぐには告げられず、ザルツブルクの友人ブリンガー神父に手紙を送り、父と姉へ知らせる役を託します。8月7日、その友へ宛てた手紙にこの一文があります。直前にあるのは「最良の真の友は貧しい人たちだ」という言葉。心配事を抱えた22歳が、母を失った夏に友情を語った文脈でした。金持ちへの苦い評は、貧しい友への感謝と対になっています。

名言17【モーツァルト】母を失ったパリから、ザルツブルクへ戻る前に

普通の才能の人間は旅をしてもしなくても平凡なままだ。しかし優れた才能を持つ者は、いつも同じ場所にとどまっていると、ダメになってしまう。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(パリ、1778年9月11日)
母をパリで亡くし、職も得られず、父はザルツブルクの宮廷オルガニストの職を用意して息子を呼び戻します。1778年9月11日の手紙は、その帰郷を渋々受け入れながら書かれました。戻るけれど、同じ場所にとどまり続けたら自分はだめになる、と。この見立ては当たります。3年後、彼はザルツブルクを飛び出すからです。帰郷を承諾する手紙に書かれた不満は、次の出発の予告でもありました。

ウィーンで独立して。認められない悔しさと誇り(名言18〜22)

名言18【モーツァルト】ザルツブルクでは働けなかった、と父に弁明する

本当にわたしは怠けることが嫌いで、働くことが好きなんだ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1781年5月26日)
1781年5月、ザルツブルク大司教との関係が壊れ、モーツァルトはウィーンに残る決意を固めます。父は怒り、戻れと迫りました。5月26日の手紙で、彼はこう弁明します。自分は怠けるのが嫌いで働くのが好きだ。ザルツブルクで働けなかったのは、楽しくなかったからだ、と。働けない原因を自分の怠惰ではなく、場所に置いた。この弁明は、ウィーンで独立したあとの猛烈な仕事ぶりによって、結果的に裏づけられていきます。

名言19【モーツァルト】ウィーンで独立して。オペラ論を父に語る

オペラでは、詩は音楽の従順な娘でなければならない。イタリア・オペラはどこでも喜ばれる。台本がいかにひどくても。なぜなら音楽が支配し、他のすべてを忘れさせるからだ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1781年10月13日)
1781年、モーツァルトはザルツブルク大司教と決裂し、ウィーンでどこにも仕えない音楽家として生きる道を選びます。この手紙は、ウィーンで最初のオペラ『後宮からの誘拐』を書いている最中のものです。台本の手直しを重ねながら、「詩は音楽の従順な娘」と言い切った。何を主役にするかを先に決めると、譲れない点と譲っていい点が自然に分かれます。独立したばかりの25歳が、作品の設計をこう語っていました。

名言20【モーツァルト】「ザルツブルクの名誉だ」と言われて

私の祖国は常に私への第一の要求を持っている。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1781年11月24日)
1781年11月、大司教との決裂から半年。ウィーンに来ていたザルツブルクの宮廷人ダウブラヴァイクから「同郷人として誇りに思う、あなたはザルツブルクの名誉だ」と声をかけられ、モーツァルトはこう返しました。その場面を父に報告しています。ここでの「祖国」とは、半年前に怒って飛び出したザルツブルクのこと。恨み言ではなく、社交の礼を返した。決裂した町にも自分の根があることを、この一言で認めています。

名言21【モーツァルト】認められないなら、よそを豊かにする

もしドイツが私を受け入れないなら、神のご意志のもと、フランスかイギリスをもう一人の有能なドイツ人で豊かにしなければならない。それはドイツ国民の恥だ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1782年8月17日)
1782年8月、『後宮からの誘拐』が成功した直後、コンスタンツェと結婚して2週間ほどの手紙です。成功はしても宮廷の職は得られず、皇帝ヨーゼフ2世から声がかからない。その悔しさと祖国への誇りが、ひとつの文に同居しています。認められない場所にしがみつくより、「それなら自分はどこで力を出すか」と問い直す。結局、彼はウィーンを離れませんでしたが、この手紙の時点では、国を出ることまで本気で考えていました。

名言22【モーツァルト】わかりやすすぎるか、難解すぎるか

黄金の中道、すなわち真実は、もはや認められず評価されない。喝采を得るためには、御者でも歌えるほど単純なものを書くか、逆に理解不能なほど難解なものを書かなければならない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1782年12月28日)
ウィーンで聴衆の好みと向き合いはじめた1782年末の手紙。受けるのは、御者でも歌えるほど単純なものか、誰にもわからないほど難解なものか。真ん中の、まっとうなものは評価されない、と嘆いています。この嘆きは、240年後の今も古びていません。それでも彼は真ん中を手放しませんでした。わかりやすさに寄りすぎず、難しさを装わない。その選び方を続けることには、静かな誇りがあります。

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作曲と努力の本音。天才と呼ばれた人の裏側(名言23〜28)

名言23【モーツァルト】遊びのように見える演奏の、裏側

私はかつて努力した。今や、その努力の跡を見せずに済むように。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1784年4月28日)
1784年4月28日の手紙に記された逸話です。ある演奏家が「あなたには演奏が遊びのように見える」と言ったのに対し、モーツァルトはこう答えました。この頃の彼はウィーンで予約演奏会を次々と開き、人気の頂点にいました。華やかな結果だけを見ると、その裏で費やされた時間は見えにくい。軽やかに見えるものほど、見えないところで重く努力した時間がある。本人が、いちばん華やかな時期にそう言い残しています。

名言24【モーツァルト】ハイドンをけなした同業者への返事

私たち二人を溶かし合わせても、ハイドンには遠く及ばない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:作曲家レオポルト・コジェルフへの言葉(年代不明)
同業の作曲家コジェルフが、ハイドンの作品の欠点を得意げに指摘したときの返事です。モーツァルトは自分とコジェルフを足してもハイドンには届かない、と言い放った。彼は1785年にハイドンへ6曲の弦楽四重奏曲を献呈するほど、この先輩を敬愛していました。偉大な人を認める言葉は、自分を小さくしません。ハイドンの側も同じ年、父に「あなたの息子は私が知る最大の作曲家だ」と語ったと伝えられています。

名言25【モーツァルト】作曲を学ぶべきか、と相談した歌手へ

自然はあなたをメロディストに作った。それ以上のことをしようとしても、自分を混乱させるだけだ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:歌手マイケル・ケリーへの助言(1786年頃)
『フィガロの結婚』初演で歌ったアイルランド人テノール、マイケル・ケリーが「作曲を学ぶべきか」と相談したときの答えです。あなたはメロディを歌うために生まれた、今から理論の勉強に入っても混乱するだけだ、と。突き放したようで、ケリーの持ち味を誰より認めた助言でした。苦手を埋める努力の陰で、得意を磨く時間が削れていないか。手を広げて疲れるとき、自分の「自然が作ってくれた形」を思い出してみてもいいでしょう。

名言26【モーツァルト】作曲が容易になったと思うのは誤りだ

作曲の技術が私にとって容易になったと思うのは誤りだ。親愛なる友よ、作曲の研究にこれほど心血を注いだ者はいない、と保証する。有名な音楽の巨匠で、私が繰り返し熱心に学ばなかった作品はほとんどない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:プラハの指揮者クーハルツへの言葉(1787年)
1787年、プラハで『ドン・ジョヴァンニ』の上演準備をしていたときの言葉と伝えられています。楽長クーハルツに向けて、作曲が楽になったわけではないと否定し、名のある作曲家の作品を繰り返し研究した、と語った。「天才は努力しない」という像を、本人が真正面から崩しています。地味な学習は、外からは見えません。続けている自分だけがその価値を知っている。それで足りる、とこの言葉は言っています。

名言27【モーツァルト】プラハの聴衆のために、惜しまなかった

プラハのために優れたものを作ることに全力を注いだ。そのためにたゆまぬ努力を惜しまなかった。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:プラハの指揮者クーハルツへの言葉(1787年)
同じ1787年のプラハで語ったと伝えられる言葉です。前年の『フィガロの結婚』がプラハで熱狂的に迎えられ、街中で旋律が歌われたことに、彼は感謝していました。『ドン・ジョヴァンニ』はその聴衆への返礼です。頑張っても手応えが薄いとき、「誰のために」が曖昧なまま動いていることがあります。彼には、自分の音楽を愛してくれた街という顔があった。1787年10月29日、プラハでの初演は大成功に終わります。

名言28【モーツァルト】曾祖父から伝わる言葉、として友に引いた

良く喋り、能弁であることは、偉大な技術であるが、喋るのを止める適切な時を知ることも、同様に偉大な技術である。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:ゴットフリート・フォン・ジャカンへの書簡(プラハ、1787年11月4〜9日)
1787年11月、『ドン・ジョヴァンニ』の初演を成功させた直後のプラハから、友人ゴットフリート・フォン・ジャカンへ。長い手紙を切り上げる口実として、「曾祖父から代々伝わる言葉」だと冗談めかして引いたのがこの一節です。本人の格言ではなく、ふざけて持ち出した伝聞です。それでも、喋り続ける自分を止める時を知れ、と自分に向けて使っている。雄弁な人が筆を止めるための、ユーモアのある言い訳でした。

妻コンスタンツェへ。離れて暮らす日々の手紙(名言29〜33)

名言29【モーツァルト】妻へ。心の中はすべて冷たい

もし人々が私の心の中を見ることができたなら、ほとんど恥ずかしくなるだろう。すべてが冷たい。氷のように冷たい。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:妻コンスタンツェへの書簡(フランクフルト、1790年9月30日)
1790年秋、モーツァルトは皇帝レオポルト2世の戴冠式が行われるフランクフルトへ、自費で演奏旅行に出ました。借金を抱え、稼ぐつもりでした。妻への9月30日の手紙に、この告白があります。人に見せたら恥ずかしいほど、心の中が冷たい、と。人気の頂点からわずか数年で、こんな言葉を書いている。「大丈夫」と笑って隠すのではなく、しんどいと言える相手が一人いる。それが、この人を支えていた形のひとつでした。

名言30【モーツァルト】同じ手紙に書いた、再会の喜び

あなたに再会できると思うと、子供のように胸が躍っている。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:妻コンスタンツェへの書簡(フランクフルト、1790年9月30日)
「すべてが冷たい」と書いた同じ手紙に、この一文もあります。心は冷えきっているのに、妻に会えると思うだけで子供のように胸が躍る。矛盾しているように見えますが、人の心はこういう形をしています。34歳、借金と疲労の中で、楽しみにしていることを楽しみだと素直に書けた。期待を照れたり、先回りして冷ましたりしがちな年齢の男が、子供のようだと自分で書いている。その一文が、冷たさの告白のすぐそばにあります。

名言31【モーツァルト】働く理由を、妻の名前で書く

愛する妻のためにすすんで仕事をしよう。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:妻コンスタンツェへの書簡(フランクフルト、1790年9月30日)
同じ9月30日の手紙で、彼は帰ってからの金銭の段取りを妻に説明します。借金を整理し、生活を立て直す計画の中に、この一文がありました。やらなければならない、ではなく、すすんでやろう。相手の名前がついたとき、同じ仕事の重さが変わる。義務感で動く仕事と、誰かのためと自分で決めた仕事は、別物です。いまの仕事の中に「この人に届けたい」と思える部分が一つでもあれば、そこを起点にしてみる手があります。

名言32【モーツァルト】涙を落とした追伸の、すぐあとに

驚くほどの数のキスが飛び回っている!群がって見える。ハハ!三つ捕まえた。とても美味しい。何百万ものキスをあなたに送る。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:妻コンスタンツェへの書簡(マインツ、1790年10月17日)
フランクフルトからの帰路、マインツで妻に書いた1790年10月17日の手紙の追伸です。直前には「前のページを書くあいだ、涙が紙に落ちた」とあります。その涙の文のすぐあとで、宙を飛ぶキスを三つ捕まえて食べてみせる。少年時代に姉へ書いた悪ふざけが、34歳の夫の手紙にも生きていました。泣いた直後のふざけは、相手を安心させるための遊びだったのでしょう。手紙は何百万のキスで閉じられます。

名言33【モーツァルト】『魔笛』の成功を妻に報告した手紙に

何よりも心地よいのは、心が安らかであることだ。それを得るには懸命に働かなければならない。そして私は、懸命に働くことが好きだ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:妻コンスタンツェへの書簡(ウィーン、1791年10月7〜8日)
1791年10月、『魔笛』はウィーンで連日の大入りでした。バーデンで療養中の妻へ、その盛況を報告した手紙の一文です。死の2か月前。成功の報告の横に、何より心地よいのは心が安らかであることだ、と書く。そのためには懸命に働かねばならない、自分はそれが好きだ、と。背景には、長く続いた金の心配から抜け出したいという願いがありました。心の平穏を、彼は休むことではなく、働くことで手に入れようとしていました。

死について。父への最後の手紙から臨終まで(名言34〜39)

名言34【モーツァルト】重病の父へ。死を「最良の友」と呼ぶ

死は、よく考えてみれば、私たちの存在の真の目標だ。ここ数年来、私はこの人類最良の友と非常に親しくなり、その姿はもはや少しも恐ろしいものではなく、むしろ非常に穏やかで慰めになるものとなっている。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1787年4月4日)
1787年4月、父の重病を知らされ、ウィーンから書いた手紙です。これが父への最後の手紙になりました。父は約2か月後の5月28日に亡くなります。死を恐ろしいものではなく、穏やかで慰めになる友と呼ぶ。31歳の息子が、死にゆく父に向けて選んだ言葉でした。終わりを意識するほど、一日の輪郭がはっきりする。死を遠ざけず、存在の隣に置くことで、生きている時間の重さがちょうどよく戻ってくるのかもしれません。

名言35【モーツァルト】死は、真の幸福への扉を開くカギ

死が真の幸福への扉を開くカギであると学ぶ機会を与えてくれた神に感謝する。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1787年4月4日)
同じ最後の手紙の続きです。死を「最良の友」と呼んだ文のあとに、死は真の幸福への扉を開くカギだと学ぶ機会を得たことを、神に感謝すると書いています。モーツァルトはカトリックの信仰の中で育ち、1784年からはフリーメイソンにも加わっていました。この死生観は、そうした信仰と交わりの中で育ったものです。重病の父に向けて、死を終わりではなく扉として語る。31歳の息子の慰め方は、そういう形をしていました。

名言36【モーツァルト】毎晩、翌日の命を保証せずに眠る

若い私でも、翌日の命が保証できないと考えることなく夜に横になることは決してない。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:父レオポルトへの書簡(ウィーン、1787年4月4日)
同じ手紙の、さらに続きの一文です。若い自分でも、明日の命が保証されているとは思わずに横になる、と。暗い言葉に見えますが、裏返せば、一日を最後の一日のように使うという態度です。4年後に35歳で亡くなることを、本人は知りません。それでも「明日もあるだろう」に頼らず一日を扱っていた。先の心配や他人の評価がうるさく響くとき、視野を一日分に縮めると、静かになることがあります。

名言37【モーツァルト】自分のためのレクイエム

このレクイエムを私自身のために書いているのではないか、と以前に言わなかったか?

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:臨終の床での言葉(ウィーン、1791年12月)
1791年12月、病床で未完のレクイエムの楽譜を見ながら言ったと、1798年のニーメチェクの伝記にある言葉です。依頼主の名を知らされないまま引き受けた鎮魂曲を、自分の死を予感しながら書き進めていた。作品は弟子のジュスマイヤーらの手で完成され、今も演奏されています。やりきれなかった仕事が、別の人の手で続いていく。それもまた、ひとつの残し方です。全部を自分の手で終えられないことを、恐れすぎなくていい。

名言38【モーツァルト】義妹ゾフィーへ。今夜、一緒にいてほしい

今夜、一緒にいてほしい。私が死ぬのを見届けてくれ。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:義妹ゾフィー・ハイベルへの言葉(ウィーン、1791年12月)
1791年12月4日の夜、駆けつけた妻の妹ゾフィーに、モーツァルトはこう言ったと伝えられています。ゾフィーが30年以上あとに書いた回想によるもので、彼は翌5日未明(0時55分)に35歳で亡くなりました。「そばにいてほしい」という願いを、最後の夜に正直に言えた。強いことと、孤独に耐えることは、別の話です。助けを求めるのは弱さではない。そう言える相手がいたことが、この人の人生に人が残っていた証です。

名言39【モーツァルト】最後まで案じたのは、妻のことだった

私はすでに舌の上に死の味を感じている。あなたがそこに留まってくれなければ、誰が愛するコンスタンツェを支えてくれるのか。

(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

出典:義妹ゾフィー・ハイベルへの言葉(ウィーン、1791年12月)
同じ夜、続けて語ったとされる言葉です。「死の味を感じている」という生々しい表現のすぐあとに、自分ではなく妻を案じている。妻コンスタンツェと、7歳と生後4か月の二人の息子を残して、彼は逝きました。死の味を口にしながら、最後に案じたのは残される家族のことだった。35年の生涯の最後に伝えられる言葉がこれだったことを、この記事の締めに置きます。

まとめ

モーツァルトの手紙を読み通すと、残るのは「天才」の像ではありません。21歳で仕官を断られ、22歳で無気力に沈み、母を失い、借金を抱え、それでも「作曲の研究にこれほど心血を注いだ者はいない」と言った一人の人の姿です。努力の跡を見せずに済むように、かつて努力した。その言葉を、努力の途中にいる人に渡したくて、この記事を書きました。
気になった言葉があれば、その手紙の年と宛先を一緒に覚えておくと、言葉の重さが変わります。1778年2月7日、マンハイム、父へ。そう添えるだけで、名言は誰かの肉声に戻ります。

モーツァルトの名言についてよくある質問

「多くのことをなす近道は、一度にひとつのことだけをすることだ」はモーツァルトの言葉ですか?

モーツァルトの名言としてよく紹介されますが、今回たどった書簡集では確認できませんでした。この文は、サミュエル・スマイルズの『自助論』(1859年)で、英国の聖職者リチャード・セシルの格言として紹介されているものです。本人の言葉ではないと断定はしませんが、出典をたどれなかったため、この記事には入れていません。仕事のやり方についてモーツァルト自身が語った言葉としては、名言26(作曲の研究に心血を注いだ)や名言33(心の平穏には懸命に働くこと)を参照してください。

モーツァルトの手紙は、日本語で読めますか?

読めます。岩波文庫『モーツァルトの手紙』(柴田治三郎編訳、上下巻)に、父・姉・妻への主要な手紙が収められています。白水社からも書簡全集が刊行されています。原文(ドイツ語)は、ザルツブルクのモーツァルテウム財団が公開しているデジタル版(Digitale Mozart-Edition)で読めます。

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